昭和43年10月1日 月次祭
                       中村良一


 もう、十月に入ります。十月になりますと、もう、大祭月でございますから、御本部参拝やら、御大祭やらと、何かと心せわしく、また、神前の方にも、それだけ、力を入れさせて頂かなければ出来ません。とりわけ、この十月は、一年の記念のお祭りがございます。教祖大祭に合わせて、お祭りがございます。つきましては、その御大祭を、いよいよ、有難い御大祭という事は、私ども、銘々も、その事によって、おかげを頂き、まぁ、さきほど佐田さんがお話しておられましたように。この事によって、ひと徳受けようと言うのでございますから。ただ、お祭りが奉仕されただけではいけんのです。そこに、本当に、銘々、思いを込め、真心を結集して、おかげを頂かなければなりません。
今朝からの御理解の中にも、信心は、苦労と修行との頂き方によって、修行というものが、こんなに有難いもんだと、実感させて貰える生活が、信心だと言う風に頂きました。私共から、一生が修行だと仰るのですから、なかなかその、楽な事ばっかりはございません。やっぱり、まぁいうならば、苦労の連続でございます。ですから、その、例えば、苦労をですね、苦労とせずに、修行として受けさせて貰う。ですから、さぁ、今日も、修行させて頂くぞという気持ちで、おかげを頂きます。今日も、結構な修行をさせて頂いて有難いという事になる。本当に、今日もきつかった。本当に、ご苦労な事であったという、その違いがですね。その思い方が違うだけでなくて、それが、苦労には、また、苦労の花であり、修行には、おかげの花。または、お徳の花が咲く事を体験して、現わしていくという事。それが、信心だと言う風に今朝からも頂きました。
ところが、言う事は易いのですけれども。実際問題として、それを修行で受けると言う事は、なかなか難しい。そこに、私は、信心の稽古を、日頃、しっかりしておかねばならんと思うのですね。折角、まぁ一日なら一日を、過ごすのでございますから、その一日が、楽な一日ではない。まぁ、きつい一日であったに致しましてでもです。結構な修行をさせて頂いて、有難かったと、お礼を申し上げりゃ、それが出来る。ところがその、やはり、苦労に終わってしまう。
これは、私が、もう二十年も前の、それこそ、朝から晩までが修行時代でございました。まぁだ、お商売をさせて頂いております。もう、お商売させて頂いておるというても、看板あげておる訳じゃない。そこしばかりり、繊維をやっておりました。ヤミ繊維ですね。もう神様から、お差し止めを頂きましてから、お商売が、なかなか出来ません。いよいよ、行き詰って参りましと、少しばかり残っております、品物を持っては、もう、その時分には、自転車もございませんでした。もう自転車も、みんな売り払ってしまっておる訳です。大変、寒い日でした。もう、靴も修繕する事も出来ずに、もう伏せに伏せておる靴が、口をあけて居る様な靴を履いて、鞄は、破れ鞄の時代。タオルを一ダースほどございましたから。この一ダースのタオルを売れば、まぁちょっと、何とか出来る。そこでその、一ダースを小脇に抱えて、まぁ、福岡の街を、福博の街を、一日歩かせて頂くんですね。金光様、金光様と、お願をさせて頂いては、その回る。ところがその、不思議にですね、その、もう、本当に、九分九厘のところまで商いが出来かかる。最後になりますと、せっかくじゃったけど、この次にしようという事になる。もう一日回る。タオル一本も売る事が出来ん。そういう時に、私はあの、もう本当に、一日、足は棒のようになってしまう。冷たい寒いも、通り越してしまって。それから、まぁ、一日を回ってから、帰らせて頂く。皆さん、商いをした方はご承知でしょうけれども、行商なんかを致します時に、売れる時にはもう、きついも何もないですね。それこそ、鼻歌でも歌うてから、それこそ、勢いよく帰ってくる。けれども、今日は、いっちょん商いが無かったという時には、もう、ぐらりする。もう、余計きつい。そういう一日でした。帰らせて頂いて、御神前に、その持って回ったタオルをお供えさせて頂いて、神様、今日は一日、東から西、まぁいうなら、福博の街を、こうやって、駈けずりまわりましたけれども。一本のタオルも売る事が出来ませんでした。私は、商売には、本当に、もう本当に自信を持っておった。人が一つ売る時には、五つは必ず売る。そのくらいの自信は持っておった。ところが、その自信も無くなってしまいました。今日は、一本のタオルすらも売る事が出来ませんでした。おかげで、今日は、いよいよ、神様のおかげを頂かなければ、立ち行かん事が分かりました。同時に、今日は、一日、福博の、もう、雪解けの道をです。もうその、破れ靴ですから、中にもう、じちゃじちゃする様に入ってるです、雪の水が。一日を、まぁ駈けずり回ってから、売るものは何にもなかったですけれども。おかげを頂きまして、結構な修行をさせて頂きましたというて、神様にお礼を申し上げると、もう頭が上がらんぐらいに有難かった。考えて見るとね。あの時分に、徳になっておったと思うですね。一日がね、もう本当に、もう、それこそ、足が棒になる様にして、歩かせて貰った。一筋のタオルも売る事が出来なかった。神様にお願いし、お願いし、この店に入らせて貰います。この角を右に曲がります、左に曲がりますと、いちいちお願をし、お願いし続けて、一日廻らせて頂いたにもかかわらず、一本のタオルも売る事が出来なかった。もう足は、棒のようになっておる。もう、足が上がらんごとあった。けれども、もう、夕方になったから、そのまま、持って行ったタオルを、一ダースのタオルを、小脇に抱えたまま帰らせて頂いた。そして、神様の前に、今日は、結構な修行をさせて頂きまして、有難うございましたと、お礼を申し上げさせて頂くと、もう、頭が上がらんぐらいに有難かった。
私はね、例えばもう、本当に、貧乏ちゃ、するもんじゃない。今日の一日の辛さ。もうほんなごて、死んだ方がまし。私は、そういう時に、そういう気が起こるじゃないかと思うですね。普通、信心のない人だったら。ところが、そこを、金光様、金光様で、一日を廻らせて頂いて、それは、売るものは何にもなかったけれども、売る事は何にもなかったけれども。御神前に出らせて頂いて、今日は一日、この雪の道の中を、福博の街を東西と歩かせて頂いて、一日を駆け廻らせて頂きましたが、私の不徳のため、一筋のタオルも売る事が出来ませんでしたが、結構な修行をさせて頂いて、有難うございましたとお礼を申し上げると、頭が上がらんほどに有難かった。
私は、今朝から、繰り返し言うております。苦労と修行の違いというのは、ここだと、私は思うのですよ。ですから、せっかく、日々が、もう一生が修行と仰るのですから。いいかえると、一生が苦労という事なのです。人間の世界というものはです。決して、楽な事のようにあってもです。お金があり、物があり、健康であってもです。心の中に難儀を感ずる事があったり、痛い痒いを感ずるのであったり、腹立ちを感じたり、淋しさを感じたりするならば、やはり、苦労なんです。だから、この苦労というものは、尽きる事はない、生きている間は。そこで、信心させて頂いてです。大きな悟りを開かせて貰うて、この世には苦労はないと分からせて貰う。この世にあるものは、修行だけである。この世にあるものは神愛だけ。神様の、より力を下さろう、より、おかげの世界に住みかえさせて下さろうとする、切なる神様の願いがあるだけだと、分からせて頂く時にです。その苦労が、全部、苦労ではなくて、今日も結構な修行をさせて頂きましてという事になる。
例えば、ほんなら、人間関係の難しい問題なんかでも。今日も、一日、腹の立つ事ばっかりだった。けども、さぁ、今日もいっちょ、本気で修行させて頂くぞという気になりゃですね。もう、腹の立つような事があればある程、情けない事を言われれば言われるほど、結構な修行をさせて頂いてという事にならなければいけない。結構な修行をさせて頂いてと、神様に、一日を終わらせて頂いた時に、その事をお礼が申し上げれるおかげを頂かせて貰う。そういう修行であって、私は、初めて、その修行が徳になり、いわば、修行と苦労の違いを、はっきり、身を持って、形の上に於いて、現わしていけれるのが信心だと。ここんところをですね、例えば、口には、修行させて頂いたと言うておってもですね。思いが伝わらんといった様な事じゃいけんのです。そら一日の事、本当にもう、歯を食いしばって修行した。はぁ、良か修行させて頂きましたと言いよってもです。思い出すと、あん時の、あの、自分に言うた人の顔が、ありありと目に浮かんで、歯痒い思いをする。これではいけない。それが、修行であると、本当に、受けさせて頂けれる所まで、おかげを頂く。そこにはです、私は、その事から思わせて貰うのですけれども。おかげで、今日一日、私に、いよいよ、今までは、自分で出来ると思うておった。あの事もこの事も、特に、商売の道であるならば、もう人後に落ちない。人が一つ売る時に、五つ売れる。実際の確信を持っておったと思うておった。ところが、その自信が無くなった。今日という今日は、自信が無くなって、本当言うたら、あなたのおかげを頂かなければ、出来る事ではないという事が分かった。私は、一日の修行の中にですね。何かが、そこに分からなければ、有難いというものになってこないのだという風に思うのですよ。ですから、その、苦労を、修行としての取り組み方というものが、本気で、真剣に取り組まなければならないという事です。心の中には、金光様、金光様と、唱え続けさせて貰うての取り組みでなからにゃいけない。そこからです、その修行によって、分からせて貰う事。おかげで、こう言う事が分かりましたと、お礼が申し上げられる時にです。初めて、その苦労はもう、修行であり、しかも、その修行は、神様が喜んで受けてくださり。そのお返しには、あの時分に、お徳を受けておったんだろう。力を受けとったんだろうという風に、私は、今にして思うのです。もう、信心はね、そこんとこです。
今日、久留米の石井清さんのお母さんですね。今日は月次祭で、必ず今日、お供え持って参ってきます。そう致しましたら、今日、ここでお届けされたです。先生、先日はもう、大変おかげ頂きました。二十九日のご生誕祭の日に、もう七十何歳ですから、ここでその、七十以上の方をお招きして、お弁当を作ったり、いろいろして、あの、余興などを見て貰ったり、聞いて貰ったりしたんですね。その事を、大変、有難いとこう、日頃言うておられます。とりわけ、浪花節があっております。あの人は、やはり番付でも大関の格を持った人だそうですけれども。やっぱし、上手の内、女流浪曲の、まぁ第一人者らしかですね。何とか秀子さんと言う人でした。お上手でした。声も綺麗な綺麗な、美しい声でしたがね。その人が、何かこの、母、何か悲劇、何とかという、その、お母さん物をやりました。その事が、もうとにかく、有難かったらしいですね。
まぁ、かいつまんで、その筋を申しますとですね。自分の義理の子供のところで、自分は、後妻に来ておられる。そこが、あんまりその、裕福じゃないものですから、もう、年寄りになって、仕事も出来ん様になってから、息子達夫婦が、まぁいうなら、要らんもんにする訳です。そして、その妹さんのところに、まぁ、一月ずつぐらいで、あっち行ったり、こっち行ったりして貰おうという事を、まぁ言うわけですね。母親が、それを悟って、そうしようと言うて、私は、その妹のところへ行くという。行くなら、今晩が良いという事で、その晩のうちに行く訳ですね。ところがその、妹さんの家でも、あんまり、良い訳じゃないのです。それでもう、実を言うたら、お客さんがあるからと言うて、嘘言うて、今晩、お母さんに泊まってもらってもね。その寝て貰うところが無いと言うから。実はね、近所まで来たのだから、ちょっと寄ったんだと言うて、家から貰って来た、その五百円を、そこの子供にやって、そして自分は、夜の街へ出て行くというのでした。ところがその、あくる日になって、警察から、言うてきた事は、そのお婆さんが、どっかの崖淵から、飛び降り自殺を図って、まぁその、危篤状態で、病院に運ばれておる。お婆さんは、お宅のお婆さんじゃないかと言うて、尋ねてくる。それで、前後して、そのおばあさんの、本当の子供がですね。ブラジルに渡っておった。それが、大変なのその金持ちになって、この秋には帰ってくると。そして、その迎え行った人に、五百万円という金を預けて、その五百万円という金を、預かって来ておると言う通知を持っておる。さぁ、そこでその、息子達夫婦がですね。妹のところにやったつもりでおるもんですから、明日は、早速、呼びにいかにゃならんと、こう言うてですね。それでその五百万が、まぁ目当てですから。ところがその、お母さんの判がなからにゃいけんとこう言う。そこで、そのあくる日、病院に行って、その弁護士と立ち会いでですね。お母さんが、もう臨終という様にひどいんです。まぁきついところなんです。そのお母さんにですね。あのお金はどうされますかと。そん時には、もう、妹も来ております、病院に。それでその、妹と二人で、山分けして良いだろうと、こう思うておったところが、お婆さんが言われる事がです。死に際に言われるのは、私は、一銭も要らん。その金は、どうぞ、何ですかね、年寄りの居られる、養老院ですかね。養老院に、寄付をしてくれとこう言うて、亡くなられる訳です。
まぁ、聞きよってから、胸が、すーっとする様な気が致しますけれどもね。その浪花節を聞いてです。非常にその、感激したと言うのですね。私共は、信心頂いておるおかげで、まぁ、近所に、清さんと末永さん。二人おりますが。あっち行ったり、こっち行ったりしよりますと。それが、どちらに行っても、大事にされると、という様なお話でございました。それで、あれから、私は、信心を頂いておるなら、まちっと、先をね、頂きたいところである、というのですね。皆さんなら、どういう風に、そこを感じられるだろうか。本当に、可哀そうな事じゃなぁと。子供がおって、その子供が、本当の子供は、ブラジルに行って居らん。自分が、小さい時から育ててきた、五つぐらいの時から育てた子供らしいですね。その子供からは、要らん者にされてです。それで、まぁ、それこそ、自殺でもしなければならんように、苦しい所を通っておられるお母さん。で、私はその、そん時、ちょうど、久富組のお母さんも、嫁と二人で参って来とった。お母さんも、それが、とても、これに引っかかるじゃない、有難いと思ったらしい。自分も、直ぐ、正樹さんと、実さんと、近所に居りますから。あっち行ったり、こっち行ったり、どちらへ行っても、嫁達が大事にしてくれるとこう言う。その中に、世の中には、やっぱり、ああいう人達も、沢山ある。事実を言うたら、信心しとる中にでもあるですよ。口では、おかげで大事にされておると言いながらです。実際は、大事にされていない。若い者から、煙たがられておる。本当に、心から、大事にされていない。だから、大事にしない方が悪いのか。大事にされない方が悪いのか。これは、五分五分なんだ。五分五分といや、大事にしなかった、若い者が悪いのだけれどもです。それはね、たとえて、私が、その石井さんと久富さんに言うとです。あの時に、例え、五百万円という金が来ておるなら、息子も難儀をしておる、娘も難儀をしておるのだから。せめて、百万円ずつなっとん、やってから、後の三百万円は、養老院にと言うならね、こん婆さんなら、ほんなもんち、私が言うた。そればってんから、それこそ、自分を大事にしなかったものには、一銭でんやらんな、みんな、養老院にやって下さいと言う。そういう根性を持っておるから、大事にされなかったんだ。大体ね、家の嫁が大事にしないという時には、その婆さんが、碌なつじゃない証拠ですよ。家の息子が大事にしてくれないと言うなら、その婆さんが、性根が良くない証拠ですよ。だからね、これから、まぁだまぁだ、もう、いよいよ、まぁいうなら、手足も動かんごとなるかも知れんけれども。いよいよ、ないようにね。若い者から可愛がられる、愛される年寄りになっていかなきゃいけませんよ。
石井さん、久富さん。あなた方は、まぁだ、手足は自由である。だから、大事にしておる訳じゃないて。あんたところの息子あたりは、やっぱ、それこそ、息子達が、二人揃うとる、どっちでも。大事にせん事はないけれどもです。どういう事に、あなたがなっても、いわば、愛し続けられるお婆さんになるために、本気で、この後美しゅうならなければいけませんよて、私が。手足の動く間はです、何とか、かんとか、年寄りの根性を出したり。いろんな、いわゆる、若い者に嫌われる様なことを言うておって、いよいよ、大事にされんごとなって、いよいよ、手足が動かんごつなってから、来るんだったら駄目だと。私は、そういう様な話を聞くたんべんにですね。お互い、信心をさせて頂く者は、本当に、信心をさせて頂いて、お徳を受けておかなければならないなという事でございます。私は、年寄りが、本当に大事にされるという事はね。その年寄りは、徳を持っておる事だと思うですね。
とにかく、最近の世相、婆ぬき、カー付きといった様な言葉が、平然と言われる様な時代なんです。ことに、例えば、年寄りは嫌われる。なぜかと、そりゃ、年寄りが徳を持たないからなんです。ただ、普通、普通で、子供達が、親を大事にするのは当たり前といった様なものじゃなくてです。本当に、家のお父さんは、家のお婆さんはね。その頭が下がると。本当に、ああいう様に徳を受けておらなければ駄目だと。私達がね、今、こうして信心、さきほど、佐田さんが言うておられた様に、子供の時から、徳を受ける事を思うて行くという事。さぁ、これで典子ちゃん、ひと徳受けようと。子供の時から、徳を受けて行くという事の稽古をする。いまさら、まだこの若い、現在、こうやって、お参りしようと思えば、お参りも出来る。信心の稽古に通うてこられる時に、おかげおかげと言うて、おかげばかりを追わずに、本気で、お徳を受けさせて頂くところの修行を、これに開いておかねばいけない。このお徳というものはね。もう、人間が大事にするのじゃない。これはね、神様が大事になさるのだ。神様から大事にされる、氏子になっとかにゃいけん。神様が、大事にして下さる。人を使うて大事にして下さる。物を使うて、金を使うて大事にして下さる。そういう内容を、私共がですね、頂かせて頂く事を目指しとかにゃいけん。それには、今日、私が申します様にね。修行と苦労というものがね。ただ、本質的には同じなんだ。同じ苦労と言うても良けりゃ修行と言うても良いのだけれども。それを、私ども、信心させて頂く者は、苦労とでも受けちゃならん。それを修行として受けさせて頂いて、日々を、今日も、結構な修行をさせて頂きましたと、神様にお礼を申し上げたら、頭が上がらん位に、有難いものになってくるようなものを頂いておかなきゃいけない。それが、徳になっていくのだ。それが、力になっていくのだ。そられが、神様に大事にされるのだ。人から大事にされると思うちゃならん。神様から大事にされる私にならにゃならん。それは、お徳なんだ。
それを、私共は、お道の信心はです。家業の行と仰る。火や水の行じゃない、家業の行と仰る、その家業の中にです。日々の日暮らしの中に、お徳を受けて行く材料が、沢山あるという事。その中をです、ただ、おかげからおかげを追うて、頂いて行っただけではですね。本当に、心もとない、息子達が、嫁後達が大事にしてくれますとは言うてもです。心から、大事にされよらん者をですね。私は感ずるです。年とって、本当に、悲しい事にならないためにです。私共は、本気で、これは、年とってからじゃありません。あの世に行ってから、なおさらのこと、物の役目を説くだけなんだ。いわゆる、神様のご信用なんだ、力なんだ。そんなに、子供に、億万のお金を持っておったところで、もう、あちらでは、それは役には立たんのだ。そこで、この世でも、徳の受けられる道を、ここでは、日々、稽古をさせて貰い、教えさせて頂いておるのである。それが、例えば、様々な、家業の中にある難儀というもの。苦しい事はあるけれども。その苦しい事を苦しい事とせずに、それを、修行として受けさせて頂いて、今日も一日、結構な修行をさせて頂いて有難かったと。神様に、お礼の申し上げれるような苦労を、修行にして行くところのおかげを頂かなきゃいけん。これなら、間違いなしに徳になる。
これは、私の、体験からです。私が、もし徳を受けておるならばです。本当に、私は、お徳を受けておると思うがです。その徳が、ほんなら、いつの時代にかと言うとです。もうそれこそ、自分の思う通りには、一つも思う通りにはならない。一日を、例えば、福博の街を回っても回っても、タオル一筋も売れなかった、あの時代にです。本当にもう、こげな辛い事はない。本当に、貧より辛いものはない。こげな苦しい事はないで、例えば、歯を食いしばったような、日々を過ごしておったら、また商売で、何か当てたかも知れません。けども、現在のようなおかげは頂いていないと、私は思う。だからね、艱難辛苦を玉にするとこう言うが。本当に、艱難辛苦が玉じゃなくて、本当に、徳じゃなくてはいかん。信心させて頂く者は、そこんところだけを、一つ覚えて、そこんところだけを頂いて。だから、馬鹿らしいという一日であってはならない。どんな場合であっても、この一日、結構なおかげを頂き修行させて頂いて有難かったという様な一日でありたい。
後、もう、十幾日で、迎えさせて貰うところの御大祭。お互い、御大祭を目指させて貰うて、御大祭のひと徳受けようとという事でなく、その前に、本当に一つ、本気で修行させて頂こう。それは、特別の修行こつは要らん。神々の中に起きてくる、日々の中に起きてくる修行を、せめて大祭まではと、例えば、それを修行として受けさせて頂くおかげを頂いたら。こらぁ馬鹿らしか。苦労でどん受けちゃ馬鹿らしか。これは、修行で受けなければ馬鹿らしかという様な、体験が生まれてくる。修行によって、いわば、有難いお徳が受けられる。修行と苦労のね、その違いを、自分の五体を持って、自分の心を持って、体験させて貰う。そういう、私は、こよないチャンスじゃなかろうかとこう思う。合楽信奉者、全信者が、打って一丸になって、御大祭に向かって進む。一つ、本気で修行させて頂こう。なるほど、お参りの修行も良い。御用の修行も良い。けれど、何というても、一日一日の中に頂いておるところのです、修行させて頂く。
最近、合楽では、今ね、お道の信奉者、お道の信者はね、朝寝をしてはならんと教祖が仰っておられる。そこんところに、一つのこう、まぁ働きが、各家庭に起こっております。とにかく、お互いがです、お参りしなくても良いからね。はぁ、親先生は、四時に起きなさる。若先生は、五時に御祈念がある。ですから、せめてその、五時の御祈念なら五時の御祈念に合わせて起きて、御祈念が、自分の自宅から出きるくらいな修行をさせて頂かれたら有難い。一つ、早起きの修行を一つ、思い立たれたら、どうでしょうか。もう、昔から、早起きは三文の徳とさえ言われる。徳を積んでいくためにもです。お参りはせんでも良いから、はぁ、今、親先生は、御祈念の座につかれたという時間に、一緒に、私と一緒に、御祈念をする様な気持でね。早起きをなさる。そういう様な、私は、運動がですね。各家庭、もうそれこそ、津々浦々まで、広がっていく様なおかげを頂いたら、有難い事になると思うですね。どうぞ。